南極大陸奇行

気が付けば、ペンギンだった。

「絶対に陥落しない城」なんてないんだな

 心の「安全基地」。インターネットで検索すれば、ジャンジャン、シャキーンと出てくる、出てくる。
 「愛着障害」。これもだ。


 


 わたしは生まれてこのかた、「怖いよ〜、怖いよ〜」と心の中で叫びながら生きていた。「不安」で「不安」で仕方がない。とにかく「恐ろしい」。とにかく「不安」になる。何事に対してもビクビク「怯える」。何事に対しても「悩み、苦しむ」。


 普通の人なら「何で怖がるの?、悩むの、怯えるの?」とあきれるほどだ。「ペンギンおやじが歩けば電信棒も怖がる」ってなもんさ。


 臨床心理学や精神医学の専門家のクライアントになったわけでない。ただ文献や情報を集めて自分なりに考えると、どうやら「愛着スタイル」が「不安定」である。「安全基地」なんてとんでもない、「完全墓地だ!畜生!」と、わめき、走りまくるだろう。


 たしかに、「自分」「自我」「自信」というものを、社会人として生きてきて、培ってきた。それなりの「経験値」を備えている。


 しかしながら、孤立した「自分」だけになると、「不安」で「怯え」て今ここにいると言う事が怖くて怖くて仕方がない。「最期に決断するのは自分だ」ということが不安なのだ。「最期に決断するのが自分でいいのだ」という、なんの根拠がなくても、自信をもって、これを受け止めることが出来ないのである。


 それは、一般的に言われる「愛着不安」というものなのだろう。「安全基地」を築きましょう。でも、中年オヤジが「おかあちゃん!」といって誰かに甘えだれるだろうか?


そんな相手がいるわけがない!わたしだって、誰かに「おかあちゃんになってくれ!」とすがりつかれたら、蹴りをいれて逃げる。


 だったら、どないしたらいいのか?


 加藤諦三さんの著書では、次のように提言される。



「5歳の幼児で心理学的な成長が止まってるのだと、そう自分に言い聞かせるしかない」


 「自分は誰に対しても認めて!認めて!とすがりついているんだ」


 「劣等感」を知られたくないがために「虚栄心」で生きているのだ


 「認めてもらいたいがために、他人に従順してしまう。しまいには無意識のなかに他人に他する憎しみをため込んでしまう。その憎しみは実は自分絵の憎しみなのだ」



 認めたくない、みじめな今の「自分」。それを素直に「ああ、これが自分なんだなあ」と認める。


 すごい苦しいことなのだが、みとめる。そして、「ああ、また、自分の幼い心がダダこねているなあ」と自分の心の中を自分でやさしく見つめる。



 心に「絶対に陥落しない城」なんてないんだな。ただ、自分が自分を守るしかない。虚栄心や劣等感で作られた「偽りの自分」を見つめなおし、「ダメな自分でもいいじゃないか」と素直にみとめ、「ああ、自分はこのままでいいんだ」と自分が安心することが大切なんだなあ、と思うようにしている

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