南極大陸奇行

気が付けば、ペンギンだった。

法律を考えるにあたって(1)


この世に誰も存在しなければ「法律」も存在しない

 南無阿弥陀仏

「私」独りしかこの世に存在しなければ「法律」はいらない

  よく、「ロビンソン・クルーソ」が無人島で独りぼっちの生活をしているのでは、「もめ事」が生じないので、法律は必要でない。と、言われてる。


「私」と「あなた」が生きてゆく以上、「ルール」が必要となる

 人が二人以上いると、必ず、「もめ事」が生じる。お互いが生きていくためには、「ルール」が必要となる。


私たちが「日本」という国で生活しているので、「法律」というルールが必要である

 「もめ事」が生じる。

 当事者同士で解決できなかったら、誰かに仲立してもらい、問題解決するほうが良い。

より「公平」で「納得」できるよう、「法律」という「ルール」をみんなで作る。

 「裁判所」でお互いが意見を言いあい、裁判官がその意見の言い合いを「法律」に基づいて結論を出し、解決する。これを、「日本」という国で生活する人々の「もめ事」の最終解決とする。

「絶対に陥落しない城」なんてないんだな

 心の「安全基地」。インターネットで検索すれば、ジャンジャン、シャキーンと出てくる、出てくる。
 「愛着障害」。これもだ。


 


 わたしは生まれてこのかた、「怖いよ〜、怖いよ〜」と心の中で叫びながら生きていた。「不安」で「不安」で仕方がない。とにかく「恐ろしい」。とにかく「不安」になる。何事に対してもビクビク「怯える」。何事に対しても「悩み、苦しむ」。


 普通の人なら「何で怖がるの?、悩むの、怯えるの?」とあきれるほどだ。「ペンギンおやじが歩けば電信棒も怖がる」ってなもんさ。


 臨床心理学や精神医学の専門家のクライアントになったわけでない。ただ文献や情報を集めて自分なりに考えると、どうやら「愛着スタイル」が「不安定」である。「安全基地」なんてとんでもない、「完全墓地だ!畜生!」と、わめき、走りまくるだろう。


 たしかに、「自分」「自我」「自信」というものを、社会人として生きてきて、培ってきた。それなりの「経験値」を備えている。


 しかしながら、孤立した「自分」だけになると、「不安」で「怯え」て今ここにいると言う事が怖くて怖くて仕方がない。「最期に決断するのは自分だ」ということが不安なのだ。「最期に決断するのが自分でいいのだ」という、なんの根拠がなくても、自信をもって、これを受け止めることが出来ないのである。


 それは、一般的に言われる「愛着不安」というものなのだろう。「安全基地」を築きましょう。でも、中年オヤジが「おかあちゃん!」といって誰かに甘えだれるだろうか?


そんな相手がいるわけがない!わたしだって、誰かに「おかあちゃんになってくれ!」とすがりつかれたら、蹴りをいれて逃げる。


 だったら、どないしたらいいのか?


 加藤諦三さんの著書では、次のように提言される。



「5歳の幼児で心理学的な成長が止まってるのだと、そう自分に言い聞かせるしかない」


 「自分は誰に対しても認めて!認めて!とすがりついているんだ」


 「劣等感」を知られたくないがために「虚栄心」で生きているのだ


 「認めてもらいたいがために、他人に従順してしまう。しまいには無意識のなかに他人に他する憎しみをため込んでしまう。その憎しみは実は自分絵の憎しみなのだ」



 認めたくない、みじめな今の「自分」。それを素直に「ああ、これが自分なんだなあ」と認める。


 すごい苦しいことなのだが、みとめる。そして、「ああ、また、自分の幼い心がダダこねているなあ」と自分の心の中を自分でやさしく見つめる。



 心に「絶対に陥落しない城」なんてないんだな。ただ、自分が自分を守るしかない。虚栄心や劣等感で作られた「偽りの自分」を見つめなおし、「ダメな自分でもいいじゃないか」と素直にみとめ、「ああ、自分はこのままでいいんだ」と自分が安心することが大切なんだなあ、と思うようにしている

「やさしく、あかるい」を評価する人は「むごい人」

やさしい

あかるい


幼いころから受けてきた評価。


まじめ

誠実

勤勉


大人びている、と人は評価する。


おとなしい

だから、幼いころから虐められてきた。


「自分が我慢したらいいんだ」

だから、他人には都合がよい人なのだ。


他人の意見に従わない

それはいけない事と思い込んでいた。

そして、他人の言う事をついつい受け入れる。

さらに、「自分が我慢すればいいのだ」と自分を納得させる。

それは「その人を傷つけたくない」という「やさしさ」なのだと人は評価する。

果たしてそうなのか?


 幼いころに「自分」を認められると「自分への絶対的な自信」が生まれる。

しかし、「抑圧」されると「不安」と「怯え」が心を支配する。

 父親、母親に認められない

それは、幼い子にとって「生きてゆけない」ことである。

だから、「お父さん、お母さんに嫌われたくない」と自分を抑圧する。

自分が「○○したい」という欲求を抑え込んでしまう。そして「自分が我慢すればいいのだ」と無意識の世界に欲求をしまい込む。親の言う事に従わないのはいけない事である、と「罪悪感」を心の中につくってしまう。


やがて、「誰に対しても嫌われたくない」という心が形成される。

誰にでも嫌われたくない

それは誰に対しても「不安」と「怯え」を持っているのである

「自分への絶対的な自信」が心の中にないので、「他人に依存」してしまう。

だから、

 誰にでも「やさしくする」

 誰にでも「あかるい」

嫌われたくないから

 「まじめ」

誰にでも、認めてほしいから

 「勤勉」

だから

 「おとなしい」


「不安」と「怯え」、そして「罪悪感」が「他人に従ってしまう」心を生み出している。



虐められる人

ストーカーにあう人

DVの被害にあう人

騙される人

そんな人々の共通するのは、

やさしい、あかるい、素直、おとなしい、まじめ、勤勉


「支配」「独占欲」が強い人には都合が良い人である。


自分の気持ちを抑えて他人に従う。

自分の気持ちを「無意識の世界」に押し込み、閉じ込めてしまう。

それは、イヤでイヤでどうしようもなく「つらい」。

自分がなさけなくなる。

でも、心の中に形成された「罪悪感」が人への「憎しみ」を外の世界へ感情表現するのを抑え込んでしまう。「自分が我慢したらいいんだ」と。

「自分はダメなにんげんである」と「自己蔑視」してしまう。


「他人に従ってしまう」たびに、「憎しみ」が生まれる。

「憎しみ」を無意識に閉じ込めてしまう。

そして、そんな自分を憎しむ。

いつも「あの人は私をどう評価しているのか?」と「不安」と「怯え」「罪悪感」で思考してしまう。

いつも、心が落ち着かない。だから、「イライラする」。



あなたは「やさしい」ね

あなたは「あかるいね」

と評価するのはいいけれど、心の中の「苦しみ」を解かっていないのでは、「むごい」ではなかろうか。